コラム

「思考」と「考える」を使い分けて自分を取り戻す

コラム記事

2022/05/06

執筆者:島森

「思考」と「考える」を使い分けて

自分を取り戻す

本当の自分を生きるためには、「思考」と「考える」を使い分けられたら、苦しさや寂しさから解放されると気づき、言葉にしてみます。一般的には、「思考」と「考える」は一緒なのですが、そこには大きな隔たりがあることを発見しました。

思考は自動運転?

まずは、「思考」の説明から始めます。

自分の思考をよく分析してみると、思考=反応=自動運転みたいに捉えています。車の運転も、自転車の運転も、それほど意識しなくても、自動的にこなせます。それを、自動運転だと表現しています。

人間は、良くも悪くも自動運転ができるので、
通勤は、電車でも、車でも、特に意識しなくても、自動運転で通っていると思います。
退屈な会議も、自動運転して流しているかもしれません。
早さと安さを重視しているランチも自動運転になりがちです。
話を聞くときも、話すときも自動運転していることが多いです。
自動運転の最中は、他のことを考えることができます。でも、他のことを考えるのも、自動運転だという認識が持てれば、格段に思考を客体化できます。

ここまでは、何となく理解できると思いますが、
会社で資料を作成しているときも自動運転だと思いませんか?(同じようなロジックで組み立てるとか)
会議で発言しているときも自動運転だと思いませんか?(反応的に発言しちゃうとか)
部下と話をしているときも自動運転だと思いませんか?(反応的に話を遮っちゃうとか)

もしかしたら、本を読むことも自動運転かもしれません(自分が解釈したい部分だけインプットするとか)
もしかしたら、このコラムを書いている自分も自動運転かもしれません(文章書いているときに、自分ではなくなることも多いです)。

年を取ると自動運転が多くなり、体験していないから、時間があっという間に流れると思っています。この思考は制御できないので、自分が思考していることにも気づけないかもしれません。自動運転は、自分ではない自分が運転している、もしかしたら集合意識みたいなものが影響しているかもしれません。

思考は、良い・悪いを自動的に判別する装置のようなもので、相手が悪い・自分が悪いなど、判断するので、苦しくなります。苦しい・寂しい・嫌だなどを感じることが多いのは、思考が回転している証拠です。僕も、心の中でずっと「嫌だ~」と叫んでいたように思います。

自分で考えて行動すると、捉えることができる世界も広がる

次に、「考える」の説明をしますが、「考える」ためには、自動運転の思考を止める必要があります。ただし、思考は止めようと思っても止まりません。思考を止めるには、感覚を優位にするしか方法がないと考えています。

感覚を優位にするために、瞑想や呼吸法などの実践や、自然に触れ五感を磨くことが有効だと思っています。

思考している自分を客体化してみるのも有効かもしれません。「自分の思考」と「思考の自分」など視点の転換をして、どう感じるのか味わってみるのも良いかもしれません。

感覚優位になったときに、良い悪い・分離の概念が薄くなるので、そこで自分で考えることができます。ホールネスという感覚に似ているかもしれません。ありのままの自分を現実に差し出すようなイメージです。

瞬間瞬間で、
歩く自分が、足の裏の感覚を体験したり、
水を飲む自分が、ごくごくのどを水が通る体験をしたり、
話す自分が、言霊を表していることに気づいたり、
食べる自分が、様々な味を堪能していたり、
自分がしていることを、客観的に見つめる自分がいて、体験している感覚になります。

その状態で、初めて「自分で考える」ができます。この「考える」は意図として、エネルギーとして流れる感覚があります。自分で考えたとき、はじめて自分で考えたことに気づくかもしれません。自分で考えて行動すると、1つ1つの体験が濃くなり、捉えることができる世界も広がります。

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